半導体中の電子スピンと核スピン偏極

.研究目的

 従来の半導体エレクトロニクスは、半導体中の電子の電荷といった物理量を用いてその情報の伝達や記憶を行ってきました。電子には電荷の性質以外にスピンといった磁気的な性質をも持ち合わせています。このスピンといった性質は電子だけでなく、特定の原子核もその性質を持っています。近年、半導体を用いた量子コンピュータが提案されて以来、半導体中の電子スピンと核スピンを制御することが重要となってきました。そこで、我々の研究室では、電子スピンの歳差運動を透過型時間分解ポンププローブ法と時間分解ファラデー・カー回転法によって直接観測することで、電子スピンだけでなくその近くで相互作用している核スピンの影響をも調べている。半導体中の電子スピン、核スピンのダイナミクスの解明に向けて、ピコ秒、 フェムト秒の時間領域での測定を行っています。

.研究内容

ラーモア歳差運動
 さて、電子スピンは磁場中で歳差運動しますが、その歳差運動の周波数は

 

 





で表すことができます。ここで外部磁場を は電子のg因子と呼ばれるもので電子の周りの環境で異なります。 はボーア磁子といった定数です。歳差運動の周波数は磁場の大きさに比例します。この周波数はラーモア周波数、またこの運動をラーモア歳差運動と一般に呼ばれています。


.透過型時間分解ポンププローブ法1

 我々が用いているGaAs/AlGaAs量子井戸などは、磁場中でのラーモア歳差運動の周期は100ピコ秒程度です。ではその短い時間のラーモア歳差運動を直接観測するためにはどのような測定をしたら良いのでしょうか?通常このような超高速現象は、フェムト秒・ピコ秒のパルスレーザーを使用したポンププローブ法によってダイレクトな観測が可能です。通常、電子スピンはそれぞれバラバラな方向を向いていますが、まずそれらを揃えるために、第一の円偏光パルス(ポンプ光)を試料に照射します。円偏光パルスをあてた直後は伝導帯中の電子スピンの向きは揃っています。その後、電子は外部からの磁場を感じて、いっせいに歳差運動を始めます。第一の円偏光パルスをあてたΔt秒後に第二の円偏光パルス(プローブ光)を照射します。このポンプ光とプローブ光の時間差は、ポンプ光とプローブ光の光路長を変化させることで制御できます。つまり電子スピンの歳差運動は、このプローブ光の透過強度の光路長依存性を測定することでその様子が観測できるのです。(図参照)

 

 

 

 

 

 

 


.時間分解ファラデー回転法2

 時間分解ファラデー回転法の原理は透過型時間分解ポンププローブ法とほとんど変わりありませんが、異なる点といえばプローブ光には直線偏光を用いていて、ファラデー回転角を検知することで電子のラーモア歳差運動を観測します。実際の測定系では、感度を上げるために試料の後にλ/2板を挿入し、直線偏光を45°傾けてその縦成分と横成分の光の強度を観測することで電子のラーモア歳差運動を観測します.また,プローブ光の反射を利用した場合にも,同様の測定が可能で,これを時間分解カー回転法といいます.

 

 

.g因子の異方性3

 GaAsのようなバルクの結晶ではg因子に異方性がありませんが、量子井戸のような特殊な構造をもつとg因子に異方性が現れます。そのような試料では、試料の内部の電子が実際に感じる磁場の向き(有効磁場)は、外部磁場と異なります。そして電子は有効磁場の周りを歳差運動し、また有効磁場の大きさも試料を傾けることで変化するので歳差運動の周期も異なります。以下にそのg因子の異方性と有効磁場の関係、試料を外部磁場に対して角度α傾けた状態で測定した結果を示します。試料は、n型変調ドープされたGaAs/AlGaAs単一量子井戸で測定法は時間分解ファラデー回転法を用いています。(測定条件は外部磁場 4TT=135K

 

 

.電子と核スピンの相互作用3

 電子スピンと核スピンは、相互作用を通してそれぞれのもっている角運動量のやり取りを行います。詳細は省きますが、円偏光の光を用いて励起された電子スピンが緩和すれば、角運動量の保存から核スピンが偏極されます。このような効果を一般にオーバーハウザー効果と呼んでいます。核スピンが偏極されれば電子が核スピンから影響を受ける磁場(核磁場)が加わり(または減り)電子が感じるトータルの磁場が変化します。

 

 

 

 

時間分解測定で観測されるラーモア歳差運動は、この電子が感じるトータルな磁場に対応しています。 オーバーハウザー効果によって電子が核スピンから磁場を受けた様子を示す実験結果を以下に示しました。核磁場の影響を大きくするために、g因子の異方性を利用し、試料を外部磁場から10°傾けています。核磁場がゼロであるならば外部磁場をかけた場合と6Tかけた場合でラーモア周波数は変化しないはずですが、ここでは核磁場の影響によって変化していることが分かります。

 

 

 

 

 

.全光核スピン共鳴法2

では電子が外部磁場以外に受けた磁場は本当に核からの磁場でしょうか?その証拠として全光核スピン共鳴の測定について述べます。試料には、76MHzの周期的パルスをに照射していますが、これによって電子のスピンは76MHzの周期で生成・消滅が繰り返されます。このことは、核スピンの立場からは、の交流磁場を受けることと、同じことを意味します。ポンプ光とプローブ光の光路差をあるところでとめておいて、76MHzの交流磁場が常に核スピンに照射されている状態で外部磁場を掃引すれば、試料中のスピンを持つそれぞれの核からの磁気共鳴が観測されます。以下にその測定結果を示します。GaAs中には三つの異なる核スピンが存在しますが、それぞれの核スピンからの共鳴が観測され計算と良く一致します。

.核スピン分極の電気的制御4

電子スピンと核スピンの相互作用の強さは一般に,電子の核の位置での波動関数の重みによって決まっています.したがって,電子の波動関数は外部電界によって容易に制御することが可能であるので,電子と核スピンの相互作用の強さを電界により変調することが可能であると考えられます.そこで私たちは,nGaAs/AlGaAs(110)量子井戸にゲート電極をつけた試料を作製し,電圧印可によって核スピン分極がどう変化するかを時間分解カー回転測定により調べました.

下図は量子井戸に印可されるゲート電圧を変化させていったときの電子スピンの歳差運動の変化を示しています.この測定は非常に小さな外部磁場しかを印可しておらず,通常は電子スピンの歳差運動は観測できません.しかしながら,負の電圧を印可するに従って歳差運動周波数が大きくなっていく結果が得られました.これは負の電圧印可によって電子の波動関数が局在し電子スピンと核スピンの間の相互作用が強められ,核スピン分極による核磁場が大きくなったためと考えられます.この結果によって核スピンの電気的制御に向けて一つの可能性が示され,量子コンピューティングへの応用が期待されます.

 

9.核スピンコヒーレンスの測定5

 

3,4のように,私たちは半導体量子井戸内の電子スピンの挙動を時間分解測定しさまざまな物性について調べてきました.また,電子スピンと核スピンの相互作用について調べ核スピンが電子スピンとの相互作用により偏極することを観測しました(6,8参照).ここでは更に,核スピンに焦点を当て,これを積極的に操作しその振る舞いを上記のように電子スピンの光学的な時間分解測定法により調べました.

 

(@)CW-NMR

 

まず核スピンの操作ですが,これには振動磁場を用いました.サンプルの近傍に図のようにコイルを巻いて,RF磁場を発生させています(下図参照).振動磁場によって核スピンを操作し,その振る舞いを電子スピンを介して光学的に測定しました.

RF磁場の周波数ωと静磁場の強度B0がω=γB0(γは磁気回転比という核種によって固有の値)という条件を満たす場合にサンプル内の核スピンが共鳴を起こします.これをNMR(核磁気共鳴)と言います.(7参照)

非共鳴時の核スピンは電子スピンとの相互作用により偏極状態にありますが(6参照),共鳴条件下ではこの偏極状態が崩れ核磁場が大きく減少することになります.この変化は電子スピンの受けるトータルの磁場の減少というかたちで電子スピンに現れます.(6参照)

(左図のように,共鳴/非共鳴条件でラーモア周波数が変化しているのが分かります.)

この変化をポンプ光とプローブ光の時間差を固定して静磁場を掃引しながら測定することで,NMR条件を満たす磁場強度においてカー回転角の変化量にピークが見られます.(右図参照)

 

(A)ラビ振動の観測

 

次に,共鳴下におかれた核スピンの振る舞いについて調べました.

共鳴条件下では核スピンが,静磁場の方向に対して周期的な振動をしています.この振動をラビ振動といいます.この核スピンの振動は電子スピンに周期的な磁場の変化を与えるため,電子スピンのラーモア周波数も周期的な変化を起こすことになります.(@)のように,ポンプ光とプローブ光の時間差を固定して測定を行うことで,この変化を観測することが出来ます.実験では,振動磁場の印加時間を4μs刻みで変化させながらこの振動の時間発展の様子を観測しました.

図のように横軸を振動磁場の印加時間としてプロットすることで,RF磁場による周期的な核スピンの振動の様子が明瞭に観測されています.

 

(B)位相緩和時間の測定

 

(A)の実験結果のようにラビ振動は時間とともに減衰していきます.これは核スピンの緩和によるもので、この緩和過程はエネルギー緩和と位相緩和という2つの要素によって特徴付けられます.また,これらの緩和現象はそれぞれ(核スピンの周囲の環境に依存する)固有の時定数をもっています.

特に位相緩和の時定数は,核スピンの集団がコヒーレンスを保持して(同位相で)振舞うことのできる時間の指標となる物理量です.これを定量的に測定するために,特定のパルス列(スピンエコー法で使用されるもの)を用いて実験を行いました.以下の図がその測定結果になります.

 

 

実験結果から,系の位相緩和時間の定量的な値を得るとともに,パルス幅の制御により定量的に核スピン操作し得ることが分かります.

 

コヒーレンスを保ったスピン集団は情報処理の媒体として使用することができることから,特に量子情報処理の分野で近年盛んに研究が行われています.特に半導体のように加工性に優れたデバイスを用いた,局所的なスピンの操作や測定の成功は今後様々な拡張を予感させる将来性のある研究テーマの一つであると考えられます.

 

References

 

[1]. Y. Ohno, R. Terauchi, T. Adachi, F. Matsukura, and H. Ohno, Phys. Rev. Lett 83,4196 (1999). 

[2]. G. Salis, T. D. Fuchs, J. M. Kikkawa, D.D. Awschalom, Y. Ohno, and H. Ohno, Phys. Rev. Lett 86, 2677 (2001). 

[3]. G. Salis, D.D. Awschalom, Y. Ohno, and H. Ohno, Phys. Rev. B 64, 195304-1 (2001).

[4]. H. Sanada, S. Matsuzaka, K. Morita, C. Y. Hu, Y. Ohno and H. Ohno, Phys. Rev. Lett. 94, 097601 (2005).

[5]. H. Sanada, Y. Kondo, S. Matsuzaka, K. Morita, C.Y. Hu , Y. Ohno and H. Ohno, Phys. Rev. Lett. 96, 067602 (2006).




戻る